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 彼女は夢を見ていた。深い眠りの中、薄闇の掛った中庭の噴水の縁へ、一人で座っている夢を見た。
 彼女のお気に入りの薔薇が一杯に咲く花壇に、不思議な明かりが二つ輝いている。月光に似た明るく澄んだ黄金の光がじっと、彼女を見つめて離れない。綺麗で、綺麗で、少し恐ろしい光だった。

−Shadow Crow−

 それはある朝のことだった。甘いローズピンクのドレスに身を包んだ少女が、ポテポテと足音を立てて部屋へ駆け込み、一人の男に抱き付く。
 少女はここではユキと呼ばれている。彼女は夜の国と呼ばれる、夜・闇の属性を持つ世界のお姫様だった。そして、駆け込んだ部屋は夜の国の王と王妃が鎮座する謁見の間、抱き付いた相手は夜の国の王子だ。
 軍服と似た形のスーツが皺になる。彼は整った顔に困惑を浮かべ、しかし、それに反して嬉しげに目を細めた。艶がある黒髪は癖毛のおかげであちこちが跳ねている。その下で深紅の瞳が緩く弧を描いた。
「おーお? おはようユッキv どうした? 朝からこんなお兄様大好きっv 的なことしちゃって」
 へらへらと締まりのない笑顔を垂れ流しながら、レイス・ファースト王子は最愛の妹であるユキの髪を梳いていく。ユキは透き通った蒼い目で兄の顔を見上げ、不安そうに顔を曇らせた。それは周囲でぴんと張り詰めた空気に怯えてのことではない。もっと別の何かを恐れているようだった。
 ユキは元々、夜の国の王家に所縁のある娘ではない。少し前の話だ、街へ出たレイスが迷子になっていたユキを保護し、親のない彼女を自分の妹姫にすると言って王家へ引き入れた。娘を欲しがっていた王や王妃は喜んでこれを歓迎したが、周囲の高官達は快く迎えはしなかった。
 当然の反応だ。突如現れたどこの誰とも知らない小娘を、すんなり王女として認める者は皆無に等しかった。妙な噂を立てられ、非難され。それゆえに、ユキはレイスに近しい者にしか懐いていない。
「ほらユッキ、パパとママにも『おはよう』言わなきゃv でもってアズにも挨拶して来いよ」
 ジャケットの裾を握って離そうとしないユキを自分の前に立たせ、玉座に在る父と母へ簡単に挨拶をさせた。そのまま脇へ控えていた一人を手招きし、黒いローブ姿の彼へ少女を引き渡す。離れることを躊躇ったユキだったが、相手の顔を見るとわずかに表情を和らげ、ローブの影に隠れるようにして移っていった。
 アズ。王子付きの従者で、夜の国で彼の右に出る者はいないと言われる高位の魔法使いだ。レイスの我が儘に振り回されている感もあるが、傍若無人な王子が素直に意見を聞き入れる数少ない相手、信頼の厚い付き人の一人だった。
 湖底から掬ったような青い瞳と髪のアズは、穏やかな雰囲気と容姿からユキにも懐かれている。姫を追ってきたのだろう数人のメイドを片手一つで下がらせ、アズは少女と共に王子の朝の挨拶が終わるのを待った。

「あんだって? ユッキが怯えてる? 何で?」
 無駄に長いテーブルの端でサクサクとクロワッサンを噛みながら、レイスが怪訝な顔で首を傾げる。当初は彼と真反対の端で食事をしていたユキが、今は彼のすぐそばでしゅんと俯いている。そんなユキにポタージュを勧め、アズは「そうなんだ」と沈んだ声を返した。
「メイドの話だと普段より早く目を覚まして、その後ずっと周りを気にして落ち着かなかったらしい。部屋を出て謁見の間に行く途中の、中庭に面した長廊下のあたりで急に走り始めて、そのままレイスのところへ」
「朝から超甘々だったのは何か悪い夢見たからとか、そんなってことか?」
 アズが分からないというように黙る。しかし、ユキがはっと顔を上げてレイスの顔に見入った。彼女は言葉数が極端に少なく、何とも寡黙な少女だ。レイスやアズはユキの行動や仕草、表情から彼女の言いたいことを察するが、今のは「悪い夢」への肯定だったらしい。
 椅子から腰を浮かせ、レイスはそばにある少女の頭へ頬を寄せる。細く柔らかな白銀の髪は絹糸のように滑らかだ。戸惑うような少女の蒼い瞳に紅を映し、レイスは「可哀想になぁ」という。
「よし、アッちゃん、今日からユッキに癒し系のペットを一匹付けよう。俺もお前もいつでもユキのそばに付きっきりにはなれないし、メイドはいるけどやっぱり心細いんだ。だから変な夢見ちゃうんだよなv ……前からアニマルセラピーを兼ねた番犬をプレゼントしようと思ってたんだ。食べ終わったら『奴』の様子見に行こう。一匹選んでおいた犬、もう躾けも終わっただろ」
 喋りながらもぺろりと朝食を平らげ、行儀が悪いと叱るアズにフォークを向ける。フォークを取り上げながら溜め息混じりに「了解」とアズが返す。話の見えないユキが魔法使いを仰ぎ見ると、彼は「レイスの行儀だけは真似しないでね」と笑った。

 銀髪の少女とローブ姿の魔法使いを伴い、紅目の王子が向かっているのは王城の隅にある兵士の鍛練場だった。通常、王子や王女が足を向ける場所ではない。しかし、我が道を行くことを信条としているレイスは行きたい所ならどこへでも行く。そして、彼の行く所にはアズがいる。さらに、ユキも付いてきてしまう。
 というわけで、三人はユキに付けるという「犬」がいる鍛練場へ向かっていた。「犬」とは言っているが、今から見に行くのは夜の国に住む種族の中で「獣人」と呼ばれる種の者だ。獣と人の二つの姿を持つ彼らは、国を守る軍人として活躍する事が多い。レイスの言う「番犬」とは護衛のことだった。
 城からの下り道を散歩でもするようにのんびりと歩いていると、ふとアズが視線を彷徨わせた。小道から少し離れた所には、春の夜に咲く薄紫色の花が鈴なりに咲いている。腰の上ほどの高さの茂みをじっと見つめ、彼はユキと茂みの間に立ち位置を変える。
「ああ、アズ、いいよ。近くまできたし、ちょっと呼んでみよう」
 アズの何気ない、それでいて不審な動きを見たレイスが静かにそれを制した。三人の先頭を行きながら、レイスは意気揚揚といった様子で口笛を吹く。短い旋律に続き、彼は鼻歌を歌いながら首の後ろへ手を組んだ。レイスの上機嫌ぶりを見たユキは、横に並んで紅い瞳を見上げながら嬉しそうに笑う。
 仲の良さ気な兄妹の後ろ姿に「本当にいいのか?」と小さな声で問いかけるアズだったが、レイスが「いいよ、ほっとけほっとけ」と言い終わると同時に、その腕は翻ることになった。木を分け枝を踏む音、柔らかな光と共に散る花。湖底の青に黒い影が映る。
「死ねぇっ!!」
 全身を黒一色にかためた男が一人、影に紛れて飛び出してきた。短いナイフを両手に掲げ、驚きに身を固めたユキへと襲いかかる。しかし、男とユキの間にはレイスが、さらに呼び出した木の杖を構えアズが割り込んでくる。
「殺気が消し切れていなかったな。その程度じゃおれは出し抜けない……っ!?」
 捻れた木の杖が水の糸を噴き出す。だが、不意に後ろから伸びたレイスの手が、アズから杖を取り上げた。弾ける水滴と驚愕に見開かれた青い瞳に、金色の光がきらりと映り込む。レイスの笑みが深まった。
「遅いぞ犬。もっと気合入れて走って来いよ」
 にやりと、決して優雅でない微笑みを浮かべながら、取り上げた杖でレイスは自分の肩を叩く。彼の声に反応するようにして、一匹の大きな犬が唸り声と共に暗殺者へと飛びかかる。いつ、どこから出てきたのか。驚きを消せないままではあったが、アズは犬に腕を噛み付かれ短剣を取り落とした男へ、鋭い視線を向ける。
 まるで視線が物質化するかのように、雨垂れに似た細い水の糸が男目がけて飛ぶ。金色の犬が男を蹴って跳ね、アズの攻撃を避ける。全身に水の針を打たれた男は悲鳴を上げるが、間髪入れず次の一手が指された。男の足元から水の柱が立ち上がり、悲鳴は水泡に閉じ込められる。
 水柱はさらに変化を起こす。アズが指を一つ鳴らすと水は丸く形を変え、シャボン玉が弾けるのと同じようにぽしゃんと音を立てて男ごと消えてしまった。アズはいつも一瞬で敵を消してしまう。レイスは消えた敵の行き先を知っているが、ユキには分からない。怖いものは全て、アズがぱっと手品で消してくれる。
 呆然とした顔のユキにジャケットを掴まれている男へ、振り返ったアズは一歩踏み出し詰め寄る。杖を取り返した彼は不満そうに眉を寄せた。
「レイス、あの犬が来るのは分かったけど、杖取り上げるのは止めてくれないか? 焦ったぞ」
「だって、アズっちゃんの魔法って速過ぎるんだもん。反応も速いし手も速いし、いいことなんだけど……犬が入る隙もないんだもん。俺、いいって言ったのに殺りそうだったから……」
「おれはまだあの犬の実力を見てない。だから信用はしてないんだ。レイスはいいって言ったけど、『もしも』は起きてからじゃ遅いんだ。レイスにもユキちゃんにも怪我なんてさせられない」
「……ユキ、この真面目なお母さん何とかしてくれよ。って、ユッキ?」
 遊びが過ぎると怒るアズを何とかなだめようと、レイスは近頃アズへの秘密兵器となっているユキを呼ぶ。しかし、ユキはいつの間にやらレイスのそばを離れていた。
 深い青色の髪を振って、アズが背後を振り返る。ユキは手を前に伸ばしながら、そぅっと犬へと近付いていた。三角の耳をぺこんと横へ折って、お座りをした犬はしっぽを振りながら首を傾げてユキを見ている。アズが慌てて叫んだ。
「ユキちゃん! ダメだよ危ないよっ! 噛み付かれたら大変だからっ! ちょっと待ってっ!!」
「大丈夫だってば! セシル、絶対動くなよっ! 動いたらアズに殺られるぞっ!」
 セシルと呼ばれた甘い蜂蜜色の犬が、レイスの言葉に耳を立てびくりと身を震わせる。明らかな怯えを見せる犬の頭に、ユキの細い指が触れた。ぽわんと嬉しそうな顔をして、少女は座っているのに自分の背丈ほどある大きな犬の耳を撫でていく。
 犬は指示通り微動だにしない。しかし、撫でる手が気持ち良いのか、しっぽがぱたんぱたんと左右へ動く。アズは大慌てで駆け寄ったものの、大人しい様子の犬に走るスピードが落ちた。すぐそばまで行くと、セシルはアズを見上げ弱々しく「くぅん」と鳴く。まるで怒らないでと懇願するようだった。
「ほら、ちゃんと躾けてあるから大丈夫だって。もういいぞセシル。俺のユッキに怪我させない程度に遊んでやってくれよ?」
「わんっ!」
 セシルはレイスの言うことをよく聞いている。ひょいっと立ち上がって一つ吠えると、びっくりしたとよろけるユキの背に回り彼女を支え、そのまま「遊ぼう?」と手に鼻を擦り付けた。獣人のセシルは犬であって犬でない。できることは「お手」や「待て」のような動物のレベルではない。
 レイスの口笛に反応し鍛錬場から飛び出してきただろうセシル。正式にこの犬を引き取ることを伝えるため、彼等は再び鍛錬場へと向かった。大きくて可愛い友達を得たユキは上機嫌だが、まだアズは何処となく不満げだ。その様子を見たレイスは「お母さん、番犬がいてもずっとユキに付いて歩きそうだな」と笑う。
 少しの緊張が混じる和やかな後ろ姿達の背後で、薄紫の花々が光を零しながら揺れた。鈴なりに咲いた花の影に黄金の輝きが二つ灯り、風に揺れる花びらのようにそれはふわりと消えた。

 柔らかい皮の紐と首輪を付けて、蜂蜜色の大きな犬が歩く。犬に繋がった紐を握って、黒いレースのドレスを着た少女がテクテクと歩いていく。少女の細い銀糸の髪を追いかけて、メイドが一人こつこつと靴を鳴らして歩く。
 セシルがユキに付いてから数日が経った。護衛と呼べる外見をしていないが、レイスからユキを守るよう言い渡されたセシルはしゃんと背筋を伸ばし、毎日堂々とした態度で彼女の散歩にお供している。
 今まではユキを邪魔者扱いし言いがかりを付ける者もいたが、セシルが「嫌味な奴」を見分けて唸り、追い払ってくれるためため、少女は散歩しやすくなったと機嫌が良い。
 今日はレイスもアズも王に呼び出されて一緒にいない。代わりにユキを妹のように可愛がっているメイドが付いてきていた。彼女はアズに魔術の手解きを受けているため、魔術師としても腕が立つ。二人と一匹は広い城内の中庭を散歩しながら、部屋に飾る花を探していた。
「姫様、あちらに姫様のお好きな白薔薇がありますわ」
 呼ばれたユキは大きな蒼い瞳を輝かせ、中庭の奥にある白薔薇に駆け寄る。
「ああ、棘で怪我をなさってはいけませんわ。今私が摘みますから、少々お待ち下さいね」
 メイドは持ってきていた剪定鋏を取り出して、これから花開こうというやや蕾んでいる花を選んでいく。ユキは嬉しそうに様子を見ていたが、ふと握っていた紐が引かれたのでセシルを振り返った。見れば、耳を後ろに向け尾を低くしたセシルは、中庭の中心、噴水の向こう側にいる人影を睨んでいた。
 黒を基調にした使用人服の男だった。髪も黒いが、対照的に肌は真白い。長い前髪が顔にかかり、あまり印象が良いとは言えなかった。だが、セシルが強く警戒を見せるほど不自然な様子もない。
 彼は城の使用人なのだろう。手を腹の前で合わせるように組んで、静かにユキ達を見ている。唸ってはいないが、寄るなとでも言うように男を睨み付けているセシルの頭に手を乗せて、ユキはそっと撫でてなだめようとした。
「いい犬ですね。よく躾けられている、勘も鋭い」
 離れているのに、耳元で囁かれたのかと思うほどはっきりと声が届いた。しかし、張りのある声ではないし、風に消えてしまいそうな希薄さがあった。そして、言葉では褒めているがそこには感心も何も、感情が感じ取れるものは何もなかった。
 彼が持つ「不審」を察知し、セシルが追い払おうと吠える。気付いたメイドが振り返ると、使用人は天上に輝く月を仰いでいた。長い黒髪が白い肌を滑り、彼の瞳が月光の下に晒される。冷たく温度を感じさせない黄金の瞳が、瞬きの後ユキの姿を捕えた。
「今日のソレ、綺麗な色のドレスですよね。でも、あんたには似合わない」
「……お前は……っ!?」
 吠え立てるセシルに続き、メイドが鋭く問う。使用人の多くを把握している彼女が知らない顔だった。ユキの前に立ちはだかり、魔術をすぐにでも使えるよう構える。しかし、対する男は表情を少しも変えないまま視線をそらし、何事もないかのように中庭を去ろうとする。
 メイドが彼を追おうとした時、自分が行くとセシルが飛び出した。ユキの手から革紐が離れ、犬は噴水を跳び越えて庭の外へ出た男を追う。顔に不安を満たしたユキを連れ、メイドも中庭を出た。言い知れぬ不快感と焦りに、メイドは表情を曇らせる。
 早く離れるべきだ。根拠のない勘であっても、アズに鍛えられた彼女が感じるものなら無視するものではない。そのままユキの手を引き、彼女達は急いで部屋へと戻っていった。

 暖炉の側の暖かいソファにぐったりともたれ、黒髪に紅瞳の男がだらしなくグラスを揺らす。特に寒い季節ではないが、明かりの意味もある暖炉は赤々とした炎を抱き、ぱちぱち音を立てながら彼を照らしている。
「朝霧の歌姫って何? 誰?」
「レイス……それは今、私がお前に聞いたことだよ。馬鹿みたいに繰り返すんじゃあない」
 火を囲むよう置かれた数脚のソファの一つから、呆れたようなやや低い声が溜め息と共に漏れてくる。短く揃えた黒髪を掻き回し、わざわざ自室に呼び出した息子の不出来な答えに彼は項垂れた。
 現在の夜の国の王はとても温厚な性格をしている。「夜の国」と対をなし、種族や宗教の違いから、常に争う形をとっている「昼の国」との関係も、彼の代になってからは穏やかになった。軍事で権力持つ王子が政治を引っかき回していても、昼の国との戦争が夜の歴史上最も少ない王として彼は名を残すことになるだろう。
 王妃の好戦的な性格をひいているレイスは、おっとりとした父の前ではよくとぼけた態度を取る。だが、父は手を煩わせる息子がそれでも可愛いため、ほとんど彼の好きにさせてしまう。そこで父の言わんとすることはおよそ母やアズがレイスに言い含めるのだ。
 この時もレイスの母である王妃が澄まし顔で口を開いた。髭を蓄え風格を漂わせる王に対し、王妃は瑞々しいほどの若さと美しさを湛えている。女王の形容が相応しい衣装で身を固めているため、人は皆「王妃」と彼女を認識するが、趣向を変えたドレスを纏えば王女として君臨する事も出来るだろう。
 細く尖ったヒールを鳴らし、深紅の豪奢なドレスを揺らしながら、王妃はレイスの前に立つ。王子が手にしたグラスの淵を紅い爪でなぞりながら、彼女は息子と良く似た紅の瞳をすうっと細める。
「少し前に、お前の曽祖父に当たる三代前の王が、昼の国より持ち帰った『水晶の街』の封印が解けた。それは知っているね? 昼の民が街を守ろうと小賢しくも水晶で全てを覆い、長い間我らを拒んできた。それがどういうわけか、急に水晶が溶け消えて、昼の国の遺物が我らの目に触れるようになった」
 形の良い唇が緩く弧を描き、妖艶な笑みを作る。
「あの魔術はとても強いものだった。術の寿命だったのか、誰かがあれを破ったのか。アズを貸してくれれば多少は分かることも増えるだろうが、お前はなかなか最高位の魔法使いを放さないからね。何故封印が解けたのか、さっぱり分からない」
 王妃は獲物を狙う猫のような目で、レイスの座るソファの後ろ、音も気配もなく立つアズをうっとりと見つめた。息子の方がいいものを持っていることに嫉妬でもしているのか、「コレに愛想が尽きたらいつでも私の所へおいで」と誘うように微笑む。アズは困り顔で少し首を傾げた。
「で、何? いい年して逆ナンしたかっただけ? アズは俺んだって何回言えば分かるんだよ」
「何度でもお言いよ。あたしもこの子が欲しいんだ。……レイス、水晶の街で見付かった物や書物から分かったことで、お前は少し疑われる身になったのだよ。ここは父と母の部屋だ。他者の侵入は許されない不可侵の間、隠し立てせず全てを母に聞かせておくれ。お前はあの街に入ったね? あそこで何か見付けてきやしなかったかい?」
「水晶の上で昼寝はしたことあるけど? ってか、はっきり言えば? 母さん達もユキのこと疑ってんだろ? 最近俺とユッキーの楽しいお散歩邪魔してくる馬鹿が増えたんだ。出所不明な小娘が気に入らないんだろうけど、何かしっぽ掴んでやろうみたいな思惑も見える。どんなデマが流れてんの?」
 大層機嫌の悪い顔で、レイスは母親の手を跳ね除ける。普段は逆らえない相手にも、今日は反発して素直には従わない。王妃の質問をはぐらかしながら切り返す彼に、控えているアズはわずかに息を呑んだ。
 王と違って王妃を怒らせればただでは済まない。それなのに、最近ユキに絡む輩が多いことで機嫌を損ね、レイスは誰彼構わず反抗的な態度を取り続けていた。この時も王の召集に応じただけ良かった。
 爪が当たったのか、わざと引っ掻いたのか。王妃の白い手に赤い筋が浮き出た。それを見た王妃は深紅の瞳を嫌そうに細め、レイスに冷めた視線を浴びせる。しかし、彼女の口から出たのはいたって穏やかな言葉だった。長年見てきた息子のことだ、彼女は彼女なりにこの苛立ちを理解しているようだった。
「さっき言われたろう、『朝霧の歌姫』さ。昔から噂はあったが、街に残されていた文献から歌姫や魔法使い、騎士のことが詳しく分かった。お前のひいお爺様があの街を得た時、街と共に昼の民もこちら側へやってきた。彼等は街を守ろうと抵抗したが、その柱となった三人の内の一人である歌姫がユキにそっくりだと噂されているんだ。元々『朝霧の歌姫』は昼の国の神話に登場する女神の生き写しと言われていたが、街の教会にある壁画の女神とユキが良く似ていてね、昼の民の生き残りなのではないかと疑われている」
「王子は昼の民に騙されているのではないか、操られているのではないか、昼の民を引き入れているのではないか。お前があんまり傍若無人に振舞うものだから、ユキ共々、妙な噂を立てられているのだよ」
 手を出せば噛み付くレイスに、困った様子で父は溜め息を吐く。レイスはそっぽを向いて応えた。
 夜の国は昼の国との争いの中で、戦利品として街を奪ってきたことがある。水晶で街を覆うという結界で守られていた街だが、つい最近その封印が解けた。街の住人は魔術を施す段階か、解けた時の衝撃で皆掻き消えてしまったらしく、残ったのは「人」以外のものだった。
 夜の民は昼の国との争いで有利になる情報や品物があるのではと、街を隅々まで調べ上げた。そして、昼の国の神話の詳細や街を守ろうとした魔法使い、騎士、歌姫についてを明らかにした。同時に、レイスがユキを「妹」にした時期が封印の崩壊と重なることに気付いた者がいた。
 王妃は王の膝に座り、傷付いた手を差し出してつまらなそうに口を尖らせる。王は美しく結い上げた王妃の金髪を撫で、彼女を支えるように腰を抱いた。そして、彼は差し出された手の傷に口付けた。
 好き勝手しているレイスを可愛がるのと同じように、王は自分勝手で高慢な王妃を深く愛している。彼としては息子にしろ妻にしろ、手の掛かる辺りが好ましいらしい。だが、王の献身にも機嫌が直らない王妃は、膝の上で高々と脚を組み、己の紅瞳を継いだ息子を冷やかに見下ろす。
「まぁいいだろうレイス、好きにおし。ユキはあたしにとっても可愛い着せ替え人形。今まで通りお前の元で大人しくしているなら、あの娘が何者でもあたしは構わない。五月蝿い愚民共が図に乗るようなことは言ってやらないさ。でも、そうして反抗し続けるならお前を庇ってはやることもできないよ? 自分で邪魔者を跳ね除けて、ユキを守り通すんだね。お前で役不足と思えばあの娘をアズと共に取り上げよう」
「両方俺んだっての。言われなくたって好きにする。いい男だろ? お姫様のためなら怖いものなしだ」
「ふん、調子に乗るんじゃないよ。お前程度の小僧がいい男? 青二才じゃこの人には敵わないよ」
 ソファから立ち上がり、レイスはさっさと背を向けた。短く揃えられた黒髪に頬を寄せて、王妃は白い腕で夫の首をそっと抱く。王の耳元で何やら囁き始めた彼女からすれば、すでにレイスなど蚊帳の外で、出遅れたアズも視界には入っていない。王は気の毒そうにアズを見やり、息子をよろしく頼むよと手を上げた。
 高慢はそのままに、それでも猫のように喉を鳴らして甘える。普段は見られない王妃の姿を前に、アズは呆気に取られたという顔でかくかくと頷いた。そつなく隙もない魔法使いは、普段より何処となくぎこちない動きで扉を閉じ主人の後を追った。

 レイスが部屋へ戻ると、すぐにユキがやってきた。アズはレイスの様子を見て少女だけを部屋へ迎え入れる。メイドから少し話を聞いた後、彼女にはセシルを放して好きにさせてやってくれとだけ言い残した。
 そこは執務室ではなく私室だった。入って右側には一人用とは思えない大きなベットが置かれ、左側には低いテーブルやソファ、書き物はほとんどしないがデスクがある。たっぷりとした毛足の絨毯が敷かれている窓際で、部屋の主は機嫌悪そうに窓の向こう、テラスに咲いている鉢植えの薔薇を見ている。
「レイス、ユキちゃんが来たよ」
 艶のある黒いレースの裾をなびかせ、ユキが心配そうにレイスのそばへ駆け寄る。振り返ったレイスは、絨毯に座り込んで顔を覗き込んでくるユキに「いらっしゃ〜い」とにこやかに笑う。しかし、表情の変化に敏感な彼女は気遣うように手をレイスの膝に乗せ、少ししょげた顔をする。
「参ったな、ユッキには営業スマイルが通じないか。……ちょっとなー、お兄様は困っちゃってんだよ。どうやったらお前からキルの影を切り離せるかな。もしばれたら、さすがに庇いきる自信ねぇや」
 白銀の長い髪を優しく撫でて、紅い瞳を細める。小首を傾げて見せるユキのそばに座り、アズは紅茶の入ったポットを揺らした。カップを二人に渡し、ゆっくりと甘い色の液体を注ぐ。
「キルが死んだ証拠があれば一番いいのだけど、遺体がないからね。死んだと言い切れない。死んでいないとも言い切れないけど、魔術発動時に昇華してしまったと考えるのが普通だ。それを生きているんじゃないかと変に固執する人がいるから、噂が噂を呼んで妙な言いがかりを付けられる。……まぁ、いつかこうなるとは思っていたけど、どう切り抜けようか」
 レイス、アズ、ユキは誰にも語ることのない秘密を持っている。自由人のレイスが公務をサボって遊び歩いている中、彼は街でユキと出会い彼女を迷子として保護した。
 王や王妃、国の幹部もこの事実は知っているし、ふらふらと街へ出歩くのは控えるようにとこの時レイスは咎められた。レイスがそこで素直に咎めを受け入れたため話は丸く収まり、彼等はユキについて深く追求しなかった。
 ユキは夜の国の街で迷子になっていた。ほとんどの者は彼女が夜の民であることを疑わない。しかし、ユキの正体こそが昼の国の王家の血を引く娘、朝霧の歌姫・キルなのだ。それをレイスやアズは隠している。
 二人はユキを保護して親を探してやる中で彼女が敵対する民族の姫だと知り、それでも彼女の仲間の終焉を見届けたいという願いを叶え、昼の民が封じた水晶の街の封印が解ける瞬間にも立会った。
 朝霧の歌姫には大魔法使い・リライと竜剣の騎士・ヒュートという二人の強力な共が付いていた。彼等は自分達の街を守ると共に、愛して止まない姫を守り、いつの日か封印が解けたなら彼女が昼の国へ帰れるようにと幾重にも魔法をかけて「キル」を封印していた。キルはかつて生きていた時代から切り離され、一緒にいられると思っていた仲間を全て失い、今の時間にたった一人で甦ったのだ。
 封印が崩れていく中、キルは絶望の底に立たされ泣き続けた。それをリライやヒュートの残像から託される形で、そばにいたアズやレイスがかくまうことになったのだ。ユキと仮の名で呼び続けた時間で湧いた愛着も後押しし、彼女は二人の間にすっぽりと収まることになった。
 キルは昼の王家の娘ではあるが、特別な力は持たない象徴的な存在でしかなかった。つまり、少女は夜の国にとって脅威となる存在ではない。それでも夜の国にとって昼の民は不純物でしかないということだろう。万が一ユキが昼の国の者だったら、というだけで城の中はざわめいている。
 レイスもアズも、説明したところで彼女が受け入れられるとは思っていなかった。ならば初めから彼女についてを伏せ、正体を隠そうと決めたのだ。外見や性格で昼と夜の民を見分けることはほとんどできない。文化が違い、信仰するものが違い、魔術の性質が少し違う。だが、寡黙で人見知り気味のユキは関わる相手も限られるため、悟られることはまずない、はずだった。
「やっぱりさ、キルについて、徹底的に焼いてきちゃえば良かったかな」
「でも、レイスはそんなことできなかったんだろう? ユキちゃんの街を焼くなんて無理って言ってたじゃないか。これでいいんだ。決定的な証拠がない以上、ただの噂でしかない。変に動かないで、いつもみたいにどんと構えていればいいんだよ」
 小さな壷からミルクを垂らし、角砂糖を入れてカップを掻き混ぜる。柔らかなミルクティーの香りにユキがほわんと微笑んだ。レイスも憂鬱な気分を変えようと、アズが何処からともなく出してきたクッキーをほお張る。小さく息を吐いて、安心した風のアズが自分の紅茶を入れた。赤茶が渦を巻く。
「表立った噂なんてすぐなくなるよ。でも、裏からちょっかいを出してくる相手はしつこいかもしれない。ほら、何かとレイスに反対してくる高官がいるだろう? 彼なんかは何とかしてレイスの弱みを握りたいんだ。ユキちゃんをつつけばボロが出るんじゃないかって探してる」
「マヂうぜぇ」
 とても王子の発言とは思えないセリフを吐いて、その地の底から湧き上がるような声に怯えたユキを見たレイスは発言を少し後悔する。
 レイスの傍若無人な態度は非難の的になることが多い。だが、彼は発言力の大きさからすぐに判断を下し動くことができる。それが機動力を生み、天性の勘もあって戦となれば負けなしの強さを誇っていた。
 レイスは現在の王と比べれば確実に暴君だが、忠誠を誓った部下や仲間に甘い面もある。軍人にとってはこれ以上ない程のカリスマ性を持った信頼できる主だった。
 その反面、武力によって国を成そうとする彼に反発する者もおり、政治に関してほとんど関わってこない彼を「戦狂いだ」と言う者もいる。温厚で聡明な現在の王を仰ぐ穏健派の者はレイスを非難することが多い。また、暴君とは言うがレイスは冷酷非道に走る男ではないため、勝てれば命まで奪うものでもないという彼をぬるいと考える過激派の者もいる。
 それでも、今のレイスは王子様としての特権と数々の武功で覇権を握ることに成功していた。アズの働きもあり、表向きは多くの者がレイスを王子として認めている。しかし、裏では貪欲な者達が虎視眈々と隙を狙っているのだ。彼の弱みを握れば、恩を売れば、彼が王となった時に得るものは大きくなる。
 そういったレイスの失脚を誘う者が今一番注目している相手、それがユキだった。以前から血の繋がりを重んじる者は出身の曖昧なユキを認めていなかったが、彼女への詮索がこのところ強く深くなっている。
 ユキについては初めこそ良からぬ噂も飛び交ったものだ。ただ、ユキを引き入れた王子だけでなく、王や王妃も彼女を受け入れ、ユキ自身も彼らに従順だったため、多くの者があっさりと彼女への疑いを消した。
 王には程遠いが、妹ができてからのレイスは温厚な面を強く出しているおかげで、穏健派もレイスを変えたユキを好ましく思っている。目に見えたユキへの非難や批判は、王族への侮辱として取られるまでになった。しかし、全てはユキが夜の国の民であることを前提にしている。
 ユキとキルが良く似ていると噂が立って以来、夜の街で迷子になっていたからと言って、彼女が夜の民だとは言い切れないと再び疑われ始めた。それ以前に、迷子を拾ったなど嘘だとまで言われている。ただ、まだ幼く人見知りのあるユキは、何を聞かれても首を傾げるばかりで、彼女が昼の国と関わりがあるかは分かるはずがなかった。
 見た目は昼と夜で違うところなど元からない、少女から文化の違いや信仰の違いは感じられない。ならば魔術の質はどうなのかと聞かれるが、ユキは自力で魔術を使うことができなかった。最高位の魔術師であるアズが「この娘から昼の力は感じられない」と言い切れば疑う余地はない。
「俺は今まで通り、ユキは街で偶然保護しただけだって言い続けるさ。不審なところは少しもないって。お前も同じように言えよ? 後は魔術師の立場からユキが昼の民ではないようなことを並べとけ?」
「うん、分かってる。……あのさ、今メイドさんが教えてくれたのだけど、ユキちゃん、その関係で多分狙われてるよ。噂の的っていう意味じゃなくて、本格的に過激な人が動き始めたっていう意味で」
「ん? そのために犬を付けたんだろ? 役に立ってないの?」
 三人でお菓子を囲み、まるで楽しくピクニックでもしているようだった。ユキは自分の身の危うさなど知らないように、嬉しそうに菓子をかじっている。彼女の髪を撫で、レイスが怪訝そうに眉を寄せた。
 アズがメイドから受けた報告を簡単に話し聞かせる。薔薇の咲く中庭で出会った不審な者について、セシルの反応や働きぶりと、敵から感じた威圧感。決して襲われたわけではなかったが、もし彼が牙を剥いてきたら恐らくただでは済まなかっただろうと、メイドは青白い顔で語っていた。
 セシルは使用人を追っていった後、しばらくしてしょぼくれた様子で帰って来たという。怪我はなかったのだが取り逃がしたことに落ち込んでいるらしい。しかし、犬の脚力を持ってして追うことができない相手、嗅覚が後を辿れない相手。一体どんな魔法を使ったのか。
「あんの犬ぅ、結構使えるはずだったのにな」
「相手が結構やり手だったみたいだよ。使用人の顔は大体覚えているけど、目に掛かるほど長い黒髪の男はこの城には仕えていないから、外からきた奴だ。誰が放ったのかは調べさせるけど、すぐには分からないと思うな。とりあえず、ユキちゃんの部屋とこの部屋の結界は強化しておくから」
 おうと応えたレイスは、ユキに今日は危なかったんだなと笑いかける。そして、ぴゅーいと長く口笛を吹いた。セシルが彼の口笛でやってくるのを知っているアズは、カップを置いて立ち上がる。部屋の戸を開けると、すぐ一生懸命に走ってくる金色の犬が見えた。
 アズの張る結界は特定の者以外全てを拒む。レイスの部屋に限っては主とアズ、ユキしか入ることはできない。なので、他人を入れる際はアズが招き入れてやらなくてはならなかった。
 不安そうにアズを見上げたセシルだったが、入ってと言われると耳や尾を下げそうっと部屋へ入ってくる。甘い蜂蜜のような金色の姿を見たユキが、おいでおいでと彼を呼ぶ。すると途端に元気になったセシルが跳ねるような足取りで絨毯までやってきた。
「おーまーえーなー、何敵逃がしてんだよ馬鹿っ!」
「きゃんっ!」
 ユキの手に鼻を近付けたところで、レイスに思い切り頭を叩かれてしまった。痛みより驚きに鳴くセシルを庇い、ユキが大きな毛玉を大事そうに抱き締める。一緒にいるようになってからユキが優しくしてくれるのを覚えたセシルは、甘えるようにきゅうきゅうと鳴いて低くしっぽを振る。
「甘ったれてんじゃねぇっ!」
 今度はしっぽを掴まれてユキから引き剥がされる。痛がって怒るものの、彼の主人は犬に唸られたくらいでひるみはしない。さらにレイスを怒らせ、セシルは耳を引っ張られ口を掴まれ、ありとあらゆる嫌がらせをされる。十分ほどで観念した犬は大人しくなり、ユキの背後でがたがたと震えるようになった。
「ユッキーあんまりそいつ甘やかしちゃダメだって。いざとなったらその犬盾にしろって教えたろ?」
 へんっと偉そうに犬を見下すレイスを、ユキは無言でじいっと見つめる。セシルが護衛で、護衛がどういうものなのかが分からないわけではない。しかし、戦うべき時に戦っているのを見ているユキは、普段はそれこそペットのように可愛がってやりたいのだ。
 自分が無事だったのだから、敵の一人くらい逃がしてもいいではないかと、ユキはうろたえ始めたレイスをじっと責め続ける。ユキの様子に気が付いたセシルが、彼女の後ろに隠れたまま「わんっ!」と一声吠える。だが、手が出ない代わりにレイスは射殺しそうな視線で犬を睨んだ。
「レイス、大人気ないからやめて」
「……ちっ。良かったな犬。アッちゃんが助け舟出してくれて」
 絨毯に戻ってきたアズが呆れ顔でレイスをたしなめる。何とか危機を脱したセシルは少女にべったりと張り付いて大人しくなった。しかし、アズに「今日あったこと直に報告して」と促され、耳を立てた犬は絨毯を降りる。そして、大きく身を屈めるとくるりとジャンプして一回転した。
 セシルは獣人だ。ぽんっと間の抜けた音と共に体から煙が噴出し、それが晴れた時には犬など消えている。代わりに蜂蜜色の髪と瞳の少年が現れた。しなやかに伸びた手足は華奢にも見えるが、尖った爪やちらりと見える牙は犬の時と変わらず攻撃的に光っている。だが、三角の耳やしっぽも健在、可愛さも健在だ。
 彼が人の姿になったのを初めて見たユキが、きらきらと目を輝かせてセシルを見る。片膝を着いて跪いた少年は気付かないまま、レイスとアズに取り逃がした敵について話した。
「今日の刺客について報告します。ユキ様を狙ってはいましたけど、武器も持たずに真正面から来たんス。殺気じゃなくて、単に威圧するような感じでした。でも明らかに敵だと分かったから追い払おうと思って」
「うん、どうして追えなかったの? 君は脚が早いし、鼻だって効くんだろう?」
 セシルは耳を折って蜂蜜色の瞳を下へやった。
「それが、中庭から出て少し走って、木の茂みに飛び込んだらそこで急にいなくなっちゃったんっス。姿だけじゃなくて匂いも消えてて、魔術使ったんでしょう、綺麗に気配が消されててとても追えませんでした。ただ、奴が暗殺者だっていうのは分かったっスよ。身のこなしが軽くて足音もほとんどなかった。暗殺者は無意識に気配を消す癖があるって言われたけど、本当に見えてるのに存在感がなくて」
「暗殺者が姿を見せた? 一体どういうことだ。彼等は本来、存在を悟らせず敵を倒すものなんじゃ?」
 レイスは報告を聞き流しながら「役立たず」「駄犬」「チビ」などと暴言を撒き散らし、再びユキに睨まれている。報告されている内容が頭に入っているかが疑わしい様子の兄妹に代わり、アズが眉を寄せて思案顔を作る。セシルも不思議そうに顔を曇らせ、首を傾げた。
「そうなんっス。暗殺者の業は切れがあって速い代わりに打撃力が乏しい。しかも身を軽くするよう鍛えるせいで長期戦じゃ体力が持たないし、重い攻撃にも耐えられない。だから一撃必殺が絶対なんっス。初撃で敵を殺せるように隠密に行動して、バレたらすぐに退く。なのに奴は最初から姿を見せてきた」
 それは攻撃の意志がなかったからこその行動なのだろう。さらに、犬に追われても逃げ切る自信があった。それなりの実力者がセシルをからかいに寄ってきたようだった。だが、セシルをからかうのが目的なら、なんて能天気な暗殺者だろう。ユキを狙った者ではなかったのか。
 アズもセシルも訳が分からないという顔を作り、レイスにどう対処しようかと話を振る。しかし、セシルをことあるごとにいじめるレイスをユキが拒み、嫌われたと焦る兄はまったく話を聞いていない。「もうイジワルしないからっ」と喚くレイスを見て頭痛がするのか、アズが額を押さえて苦々しい溜め息を吐く。
 片方の耳をぺこんと折って、セシルも「ははは」と危機感のない彼等に苦笑した。すると、すっくと立ち上がった少女がパタパタと軽い足音を立てて彼の元へ駆けてきた。転ぶのではないかと思う足取りに手を差し出すと、ユキは恐々と、それでも嬉しそうに彼の手を取る。
 透き通るような白い肌と銀糸の髪、蒼い瞳の愛らしい少女が、甘い蜂蜜色に染まった優しげな風貌の少年に駆け寄る。当事者に自覚などないだろうが、とても絵になる様子だった。それこそ王子様とお姫様といった風。もう知らないとユキに見捨てられたレイスが恨めしそうに唇を噛んだ。
 姿が変わっても気にならないようで、ユキはセシルによく懐いている。ただ、人の姿のセシルはべったりと自分から張り付くわけにはいかないと少し距離をとっているようだ。手を繋いでそばに座るユキに「冷えるから絨毯に戻った方が」と気弱に勧める。
「ねぇ、レイス、いい?」
「……何」
 アズが冷静な声で主人を呼ぶと、レイスが心底落ち込んだ声で答えた。
「相手の出方が意味不明なんだ。何がしたいかよく分からない。だから攻めずに様子を見ようと思う」
「ああ、それでいい。っていうか、ユッキーに犬付けるの、やっぱやめようかな。俺が張り付いてる方がいくね? 俺の方が強いし、暗殺者とか目じゃないし、女の子なんだから色々安全面を考えてさ」
「レイスはおれをお母さん扱いするけど、今のレイスはお父さんみたいだよ」
「だって、俺のユッキーなのにさ、セシルが意外と図々しいんだよな」
 ぐちゃぐちゃとごね始めたレイスのことなど歯牙にもかけず、ユキはセシルの手を引いて自分の部屋へ帰ろうとする。兄から「ツンデレラ」と異名を付けられた経験のある少女は、時々兄に対して気まぐれな態度を取る。懐いているかと思えば素っ気なく、今もレイスの呼びかけにぷいっとそっぽを向く。
「ユキちゃんはもう寝るんだね? じゃあ部屋の結界を少し強くするから一緒に行くよ。セシルも少し説明するからそのまま来て。……レイス、カップとお菓子は片付けちゃっていい?」
「もーいいっ! 俺ももう寝るから行っちまえっ! ……ユッキ〜、たまにはこっちで寝ない?」
 ユキはつんと澄まし顔。甘えた声はどうやら、妹の耳には届かなかったらしい。

 いじけた、拗ねた。目に見えてへこんだレイスを置いて、三人はユキの部屋へと向かう。場所はそう離れていないが、それぞれの部屋が大きいためドアからドアへは距離がある。
「セシル、ユキちゃんの部屋に侵入者があった時に結界がどうなるか説明するから覚えて」
 ユキを間に挟んで三人は横並びに歩く。真剣な様子の二人を見比べ、ユキは少し不安そうにアズの服の袖を握った。狙われているのが怖いと言うより、心優しい彼女のことだ、自分のために誰かが傷付くことを危惧しているのだろう。
 彼女の以前の従者は、彼女を守るために戦い、散っていった。彼等にとって愛する主のために命を落とすのは本望だったのだが、残された少女はその行為に酷く傷付いた。今回、自分を守ろうとしてすぐそばにいる誰かに同じようなことが起こったらと、ユキは心配している様子だった。
 彼女が人を亡くすことを恐れるのをアズは知っている。だから、彼女の前では極力敵と戦わないよう勤めるのだ。まるで手品のように、悪者は消し去る。後で二度としないよう言い含めるよと笑いながら。
 この時もアズはしまったと思った。いつも通り、自分は災いをぱっと消す道化でなくてはならないのに。彼女の前で言うべきでない言葉が口から出かかっていた。
「あ〜、おれの結界は敵を弾いてしまうから、セシルの仕事は吠えておれ達を呼ぶことだね」と、アズは冗談めかして笑った。セシルは彼の目配せを受け、「まるで呼び鈴じゃないっスか」と苦笑して答える。
「ユキちゃん、着替え終わったらセシルを入れてあげて? それまで君は廊下で待機だよ」
「分かってるっスよ。勝手に入ると、メイドさんにしっぽ千切られちゃいます」
 そう言葉を交わしユキを笑わせながら、二人は彼女を部屋で待っていたメイドの元へやる。そして、扉が閉まると戸に背を預け、アズは手を合わせた。掌から生まれた水泡が木の杖を落とす。セシルもスーツとも軍服とも取れる黒服のポケットから、薄い手甲を出して両手に嵌めた。
 闇色のローブを広げながら杖を構え、魔法使いは湖底に響く水音のような、しっとりと静かな声で言葉を連ねる。魔法を使えないセシルは彼の様子をいつも呆けたような顔で見る。この雄大な湖のように穏やかな男が、一度荒れれば誰の手も届かない嵐を生むのだ。それこそ冗談のように。
 ユキの部屋の壁に乱雑な走り書きに似た文字が、まるで模様のように浮き出る。薄青い光を発するそれはアズの唱える呪文に応じて増えてゆく。びっしりと隙なく壁を覆った術は、ここから見ることはできない部屋の全面へと及んでいた。
 青く澄んだ瞳を見つめながら、セシルは結界の強化を終えたアズに拍手を送る。幼く見える大きな目には尊敬の色が見て取れた。彼にしてみれば魔法使いは誰でもすごい、中でもアズはすごくすごいのだ。レイスのような激しく華々しい上司が嫌なわけではないが、穏やかながら底を見せない彼にどこかで憧れている。
 三角の耳としっぽをピンと立てるセシルに、アズは照れ臭そうに微笑んだ。そして、先ほど言わなかったことを小さな声で囁く。
「セシル、今度の結界はただ強固なだけじゃない。破られたら呪文が攻撃魔法に再構築されるから、敵を見付けたからといって突っ込まないようにね。水膜で敵を覆った後に水の槍が出てくる、中に入ってしまったら槍を避ける方に集中して。術は敵を見分けてくれるけど、君が攻撃の軌跡に入っていても避けてはくれないよ。出来るなら術に捕まらずにいて欲しいな」
「分かったっス。結界に何かあったら分かるんっスね? アズ様達が来るまでをオレで耐えろと」
「うん、でもあんまり派手に暴れないでね? 近くにユキちゃんがいるんだっていうこと、忘れないで。あの娘の前で流血沙汰は避けたいんだ。ユキちゃんは優しくて繊細な子だから」
 ふさふさとした蜂蜜色のしっぽを機嫌良さそうに左右へ振って、セシルは大きく頷いた。そして、ぽんっと煙を撒き散らし犬へと姿を変える。柔らかな毛がびっしり生えた頭をくしゃりと撫でてやると、気持ちいいのか目を瞑って擦り寄ってきた。
 しゃがみこんでそのままセシルを撫で回しユキを待つ。しばらくして寝巻に着替えたユキがドアの隙間から顔を出し、彼女は姿の変わった犬に目を輝かせた。まるでぬいぐるみのようにぎゅうっと首を抱えられ、セシルはずるずると引きずられて部屋へ入った。

 たらいに張った水に墨を一滴落とすと、黒はじんわりと水を汚し広がっていく。それと少し似ていたが、墨は薄まることなく清涼な青を侵食していった。壁一面に刻まれた魔法陣は、輝きを潜め今は目に見えない。しかし、穴が開くように一節が薄黒く濁っていく。
 ひんやりと水を浴びるような感覚に身を浸し、闇が部屋へと忍び込んだ。艶のない黒い毛は微かな光を呑み、夜闇に紛れ隠れている。だが、月のように輝く黄金の瞳が彼の存在を強く主張していた。
 大きなベッドに埋もれながら眠るユキのそばで、セシルの鼻がひくりと動く。少女の足元で丸くなっていた犬が耳を立て、優しげな金の目が所在なく辺りを見回す。しなやかな足がすっと立ち止まり、黄金の瞳が遠くを見るように細まった。
 セシルはしばらく様子を見ていたが、ぽすっと掛け布団に沈みこみ再び眠り始める。低くしていた姿勢を高め、侵入者は小さな音も逃すまいと忙しく耳を動かす。そして、ゆっくりと歩を進め、部屋の奥にあるベッドへと近付く。
「……。……っ?」
 甘い色の輝きが布団の上で跳ねた。セシルが不意に飛びあがり、広い室内にさっと視線を走らせる。黒い体が素早く伏せられたが、薄暗い部屋の中でも金が目を引き番犬を目覚めさせてしまった。
「っ!? がるぅっ!」
 低く唸った犬が飛びかかる。星屑のような爪が閃き、夜闇を纏った体が軽々と宙を舞う。蜂蜜色の犬が絨毯を掻いて追いすがるが、敵はセシルを相手にしない。
 横に飛び退ったその先からベッドへ、ユキへと一息で突っ込んでいった。カーテンの隙間から零れた月光が影を浮かび上がらせる。黒い猫だ。いいや、猫というには大き過ぎる猛獣、黒い豹が太い尾を引いてベッドに飛び上る。
「っ!?」
 長い毛がざわりと逆立ち、太いしっぽも箒のように毛羽立つ。黒豹の周囲でぴちゃんと水が空気を震わせた。と同時に空間が波打ち、豹が丸い水膜に覆われる。
 セシルが部屋を駆け抜けユキに寄る。騒ぎに目を覚ました少女の横で煙が吹き出し、それを割って少年が飛び出した。セシルはユキを抱えて部屋の隅へ、豹から距離を取ったところへ彼女を下ろし、拳を握って身構えた。
 蜂蜜色の優しい瞳が緊張に硬い光を見せる。彼の視線の先で、薄い水の膜が白く濁り軋んだ。靄を纏った球体がガラスを割るようにして砕け散る。中から煙が流れ出し、黒に包まれた長い足が絨毯を踏む。
「……同じものを二重に掛けてたんですね。内側のコレ、気付かなかった」
「それ、アズ様の魔法を破ったっ? どうやって……っいや、あんた誰なんっスかっ!? 何度出てきたってユキ様への手出しはオレが許さないっスよっ!?」
 セシルは黒豹が獣人だったことよりも、男がアズの術をあっさりと破ったことに噛み付く。艶がなく長い黒髪の男だった。青白いほどに肌は白く滑らかで、背はセシルと同じくらいだろうか、どれかと言えば細身で華奢な体つきをしている。飾り気がなく体に密着する黒い衣装は、隠密に動く暗殺者が好む格好だ。
 彼の声には聴き覚えがあった。平坦で抑揚がない、感情の欠落した声色。ユキやメイドと中庭で会った使用人の男、やはりユキを狙った影の者だったようだ。
 長い前髪の向こうで黄金の瞳がすっと細くなる。庭に繋がれた犬が吠えるのを鬱陶しがる猫、まるでそんな気持ちにでもなっているのだろう。だが、刹那の間に瞳から呆れの色は消える。足元に散らばる元は水だったものを一欠片拾い上げ、男は素早く腕を横へ走らせる。
 強烈な冷気で凍った水が、手の中で氷の短剣へと形を変えた。細身で鋭い飛剣が、指に踊り血を求める。
「わんわん煩い……時間ないんで、邪魔するならあんたから死んで下さい」
「っ!!」
 氷を踏み割る音、耳が反応した時にはもう遅い。取ったはずの距離が一瞬でゼロになる。反射的に前へ出した手に痺れるような衝撃が走る。手甲と飛剣がぶつかったのだと理解した時、すでに相手は次の動作へ移っていた。
 飛剣から片手を離し、空いた方の手がセシルの首に伸びる。白い指の先には尖った爪、喉を掻っ切られる幻像が脳にちらつくが、膝を折って際どく避ける。蜂蜜色の髪がさらわれ暗闇に舞い光る。
(やっぱり速いっ! でもそんなに重くないから簡単に受けられたっ。多分っ押せれば押し切れるっ!)
 緊張に硬さの増す瞳が希望を見出した。歯を食いしばって力を込め、握った拳を伸びきった男の腕へ叩き込む。近距離がために避けきれず、腕をまともに弾かれた。小さな舌打ちに三角の耳がぴくりと動く。
 予想外にセシルが素早かったのだろう。男は逆手に剣を持った手を腕に添え、とんとんと軽く跳び退る。だが、平然と打たれた腕を振った。何もなかった空間から冷気がほとばしり、氷柱の群れが放たれる。相手が魔術を駆使してくることも予想の範疇だ、セシルはユキを抱えて難なく軌道から逃れる。
 驚きに動くことのできないユキをベットの陰に残し、少年は自ら暗殺者へ向かっていく。寄られる前に寄り、少しでも組み合い時間を稼ごうというのだ。男を倒すことよりもユキを守ること、アズを待つことを考えている。ユキに向かうような暇を与えるわけにはいかない。
 低い姿勢で走り殴りかかる。だが、暗殺者は猫の敏捷さで二度三度と叩き込まれる拳を避け、一瞬の隙を着いて手甲を弾いた。下から跳ね上げた脚がセシルの腕を捕え、力任せに前をこじ開ける。そのまま脚を地に着け、開けた胸元へ飛び込むと飛剣を突き立てる。
「……本当にいい犬ですよ。ちゃんとお姫様の盾をやってるじゃないですか」
 素早いセシルの急所はそう簡単に狙えない。まずは一撃、脇腹を抉るように刃を入れて横へはらう。体当たりの衝撃と裂かれた腹の痛みにセシルが呻く。血を撒きよろけた彼に労うような言葉をかけ、暗殺者は無表情に首へ短剣を向けた。
「でも、お姫様を護れない盾でしたね」
 空を斬り、赤く汚れた氷の刃が足の止まったセシルの喉に触れる。
「そうかな? 良くやってくれたと思うけど」
 静けさの中にひんやりとした怒りが広がるその声。剣先は喉の薄皮を裂くが、やや前方、下からの強い力に弾き飛ばされる。目の前で水の壁が激流となって立ち上がり、セシルと暗殺者の間を塞いだ。
 突然の反撃に続き、黒衣の魔法使いが揺らぐ水面を割るようにして現れる。位置はユキの隠れるベッドの前だ。だが、視線をそちらへやる間もなく、暗殺者は水の壁に手を付ける。普通の者がそんなことをすれば指先から消し飛ぶだろう。それほどに水の壁は荒々しかったが、男は躊躇わない。
 指の先がぱちっと青白い光を放つ。すると凶暴な水流が音を立て軋みながら、竜の鱗のような肌の氷へ姿を変えた。さらに、転げながら引き下がるセシルを追って、属性と共に主を変えた壁が棘となって襲い掛かる。
 水が氷へ、アズから暗殺者へと術の主導権が変わる。アズは優しげな顔を苦々と歪め、木の杖を鋭く床へ打ち付けた。唇が古い言葉を詠い、清い風を呼ぶ。
 セシルに伸びた氷の棘が風に当てられ、広い部屋の天井に突き刺さった。突如として吹いた風に暗殺者が攻撃の手を止める。黄金の瞳がようやっとアズを捕え、嫌そうに眉が寄せられた。
(氷属性に長けた奴か、結界もああやって破ったんだな。水で氷を制するのは難しいか)
 正面から視線を受け、アズは来るなら来いと身構える。セシルは壁際まで下がり、腹を押さえながら苦しそうにしていた。まだ戦えると目から強い意思が見えているが、その必要はもうない。アズは大丈夫だよとセシルやユキに分かるよう微笑んだ。
 湖水の青い髪をざわめかせ、魔法使いの周りで風が渦を巻く。暗殺者の男は暗闇の中で静かに向き直り、ゆらりと身体を揺らしてその場に沈んだ。セシルなどよりもっと低く、床を這うような姿勢で影が走る。振るう腕で飛剣を飛ばし、虚空から新たに細く小さな飛剣を抜き出す。猛獣の爪のように十指に揃える。
 アズは杖の一振りで飛剣を弾いた。そして、迫ってくる男を拒むように空いた手を前に突き出す。瞬間にライトグリーンの薄羽が円形に並び、触れるものを切り刻まんと回りだした。
 暗殺者は再度飛剣を投げる。三本が風車に当たり砕かれた。氷片が細かく砕け、かすかな光を吸い込みきらきらと輝く。その霞の向こうで男の姿が揺らいだ。
 はっとした時にはもう遅い。アズを狙わず、その横をすり抜けて男がユキへ牙を剥いた。きょとんと固まる少女の細い首が、散らされる花のように飛ぶ。白銀の髪がまるで白薔薇のように。
「な〜んちゃってv」
「……っ!?」
 能天気な声が、男の上から振ってきた。同時に背中を重い衝撃が襲う。アズがほっと息を吐いた。
 幅と長さのある長剣の腹が、思い切り暗殺者の背を叩いたのだ。肺が潰れるような息苦しさに咳き込み、無様にも床へ倒れこむ。ぶれる視界に移りこんだのはラフな格好の男だった。紅い瞳をおかしそうに細めたレイスが片手で掬い上げたユキをベッドへぽいっと投げる。
 スプリングが効いているベッドでユキがふかふかと跳ねた。兄の乱暴さをこの状況下で怒る気はないのだろう、しっかり繋がっている首の上では愛らしい顔が少し困っている。それを腕に抱き寄せ、アズがするするとセシルの方へ下がっていく。
「へぇえ。アズを抜くなんて、ホントに暗殺者の素早さは侮れねぇな。何? ユキ殺ったと思った? 残念だなぁ、お前陽炎でも斬ったんじゃんv ……さぁ、引くなら今だ。ユキがいる分、今の俺様は優しいぞ?」
 お茶らけていた声が急に低くなる。いるだけで押し潰されそうな圧倒的存在感に、何故こう簡単に背後を取られたのか。読めなかった気配、立ち向かうことを躊躇わせる覇気、暗殺者は金眼を軽く見張る。だが、彼は気丈にも飛剣を握り締めた。爪を磨き構える獣のような気を纏わせる。
 このまま戦っても戦闘力に富んだレイスが出てきた以上、勝ち目があるようには思えなかった。役目を果たすことも難しい。だが、簡単に降伏するわけにはいかなかった。彼は捕えられるわけにはいかないのだ。
 暗殺者の男には主人がいる。その主人についてをレイスは知りたがるだろう。ユキに彼を差し向けた相手を探り出して、その権力と武力とで排除しようとするはずだ。ユキを殺せないばかりか、顔が知れてしまった。罰は必須だが、秘密を守り帰ることが彼の「最良」になった。
 何とか起き上がり、片手片膝を着いたまま黒い髪の隙間、金が紅い瞳を見上げる。
「嘘言わないで下さいよ。ただで逃がす気なんかないでしょ」
「ああ、普段の俺ならな。背を向けた瞬間に殺るよな、生かして帰さない。でも、ユキがいるって言ったろ? お前が諦めてくれるなら、女の部屋をこれ以上血で汚さずに済む。無条件で逃がしてやるさ」
 優雅に紅の剣を振るい、美しいほどの動作で構えて見せる。レイスにとって暗殺者が向かってこようが逃げようが、どちらにも相応の得がある。黒幕のしっぽを掴むチャンスを得るか、ユキの前で血を流す戦いを避けるか。ただ、望むのは後者の「得」だ。暴君ではあるが、彼もユキには気を遣う。
 傍若無人、戦場では冷酷無比と敵に恐れられているはずの男が、あっさりぬけぬけと言いきった。金の瞳が理解出来ないという風に戸惑いを浮かべるが、レイスの態度は変わらない。向かってくるなら容赦はしないと剣を構え、しかし逃げるなら寛大に許そうと窓への道は空けている。
 アズがユキを連れ、セシルに肩を貸しながらドアへ移った。彼もユキを守れればそれでいいようで、レイスの考えに従っている。退いた先で様子を見ながら、セシルに治癒の術を施し始めた。
 暗殺者はしばらく静かにレイスの動きを見ていたが、彼が睨み合いに飽きて「早く逃げちゃえよー」と剣先で床をこんっと打つと、それを合図に床を蹴った。
 その場で跳ねて身体を一回転させ、煙を撒きながら姿を黒豹へ変える。関心したように口笛を吹く男を避け、ベッドを跳び越えて豹が部屋を駆け抜けた。
 窓ガラスを割って庭へ飛び出す。あっという間に彼は闇へ紛れ消えてしまった。

 その夜、ユキはレイスの部屋へ移された。怪我を手当てされたセシルをユキが心配するので、彼もベッドのそばに敷かれたタオルに包まって寝ている。セシルの怪我は酷かったが、すぐにアズが治癒を施したので命に関わる大事にはならなかった。
 自分のベッドにユキを寝かしつけたレイスは、テラスに出て足の細いワイングラスを傾けている。中の真っ赤な液体は透き通っていたが、それを飲む彼の姿は血を煽る悪魔のようだった。愉快そうに弧を描く唇は、鮮血の赤に染まる。
「メイドは無傷で騒ぎにも気付かなかったか。無駄な殺しはやらず隠密に、腕の良い暗殺者だったなぁ。どうやってお前の結界破ったんだろーな」
 部屋とテラスの境でユキを見守るようにアズが立っている。苦い表情は失敗した自分を強く責めているからだろう。守るために強化したはずの結界が、まったく役に立たなかった。魔法使いのプライドにもそれなりの傷が付いた。
「結界はちゃんと残っていた。でも、穴があった。多分、結界を強化する時に細工されたんだ。あの暗殺者は氷を自在に操っていたから、水に干渉するなんて造作ない。……結界は張り終われば術者本人以外受け付けなくなる。いくら氷魔術を使えても働いている結界を無効化にはできないから、ユキちゃんが狙われていると見せ付けて、おれに結界の強化をさせた。そこで術の構築に関われば、後からの変更も可能になる。おれが離れた後で人一人すり抜ける穴を作ったんだよ」
 事前にセシルを使って圧倒的な力を見せつけ、アズに警戒させた。あの暗殺者にとって最も障害になるのはあの結界、それによって呼び出される二人の強敵だったのだ。それを避けるため、わざわざ姿をさらすというレイスやアズからすれば不思議な行動を起こしていた。
 唇を噛んで悔しそうなアズへ、レイスはホラと何処からともなく出したグラスを差し出す。その顔には彼の失敗を微塵も責めてはいない、いつも通りの笑みがある。
「そっか。じゃあ次回からは細工されないように何か考えないとな。にしても二重に結界張ってあって良かったじゃん? アッちゃんの心配性が今回は見事に役立ったなv 次は三重とか三十にしちゃえよv」
「レイス、こういう時は怒ってよ。一歩間違えばユキちゃんを死なせてた。セシルには怪我をさせてる。これが王子を狙う奴が相手だったら、国は世継ぎを失っていたかもしれないんだ」
 深い湖の底のような瞳が、酷く陰り濁っている。グラスを受け取らない彼にむっとして、レイスは二杯目も自分で飲み干してしまう。だが、品の欠片もない飲みっぷりにも、アズは茶々を入れることができなかった。
 レイスは空のグラスをテラスの外へ放り投げ、つかつかとアズに近寄る。いかにも不満があるという眉を寄せたレイスの顔を見つめ、アズは沈んだ表情のまま彼の言葉を待った。
 テラスへのガラス戸に寄りかかっているアズの耳の横、威圧的に、逃がさないとでも言うように手を着いて、紅い瞳が魔法使いを見下ろす。
「なぁアズ。前から思ってたんだけどさ」
「うん」
「お前、俺の事ものすごく舐めてるよな」
「……」
「俺は俺が死にたいと思う時まで死なないし、俺が納得する理由でしかお前もユキも死なせてやらない。お前は王子付きの魔法使いで、俺の身の安全を守る役目も持ってるけど、そんなのただの体裁上の役でしかないんだよ。元を正せばただの幼馴染だ。俺だってユキやお前を守りたいと思ってる、時々失敗もする。今回は誰も死んでない。怪我はお前がちゃんと治した。何もできなかったわけじゃないんだ、落ち込む時間やったんだからもう前見ろよ」
 乱暴に吐き捨て、レイスは室内へ戻っていく。彼は長いソファに倒れこみ、見えるように手を振った。
「と言うわけで、お前は明日ユッキーの部屋の掃除を手伝うこと。床とか絨毯が犬の血で汚れたからな、綺麗にしてこい。あと、俺はまだ飲んでたい気分だから、ちょっとチーズかクラッカー持ってきてv」

 ユキは兄のベッドに埋もれながら夢を見ている。着ているのは眠る時に着た寝巻きだ。ふわふわと裾を広げながら、風もにおいもない闇の中を、散歩でもしているように歩き続けていた。
 ふと、星の欠片に似た金色の光を足元のずっと下の方に見付けた。床がないか、ガラスの上にいるみたいだ。近付いてみようと思うと、足がひとりでに向きを変え、螺旋階段を下りるようにしてくるくると体が回りだす。星が足のすぐ下に来た。手を伸ばし、しゃがむ。
 特別表情を浮かべていなかったユキの顔に、はっと驚きが広がる。金色の星は、虚ろに空を見る瞳だった。
 気付けば暗闇は薄暗い部屋の中へ変わり、床には黒い大きな猫が横を向いて寝そべっていた。その黄金の瞳が星に見えていたのだ。闇に紛れるように、黒豹の暗殺者が倒れている。
 夜目が慣れてくるように、自分のいる場所、見ているものが鮮明になった。部屋は鉄格子の嵌った牢屋のような場所で、天井には蜘蛛が巣を張り、埃っぽく薄汚れている。
 豹の胸元は浅く上下を繰り返し、細い息が口から漏れていた。よくよく見ればその手足には重そうな枷が嵌り、乱れた毛並みの合間には赤く血の滲んだ皮膚が覗いている。酷い仕打ちを受けたのだろうと、容易に想像ができた。
 目の次に耳が慣れてきた。豹の吐息の他に、話し声が聞こえる。視線を上げると、そこには暗い茶のスーツを着た男が一人と、濃紺の警備服に似た衣装の男が二人立っていた。
 牢の外にいるスーツの男にユキは見覚えがあった。レイスに連れられて城内を歩いていると、時々すれ違う男だ。挨拶を交わし彼が見えなくなると、レイスはすぐ「あれは本当に人の揚げ足取るのが上手いよな」と愚痴る。
 この国の政治に深く関わっている重鎮の一人だ。口元に手を添え、ユキは数歩後退る。だが、彼等にユキの姿は見えていないらしく、淡々とした様子で会話が続いていた。どうやら茶のスーツの男は警備服の二人に、この暗殺者を亡き者にするよう指示を出している様子だった。だが、警備服は少々躊躇っている。
「本当にいいんですか?」
「構わんさ。腕の立つ使い勝手のいい奴だったが、あのアズに顔がばれたのだろう? 使い回すことは出来んし、足が付く前に処分した方がいい。小娘の情報を何一つ掴めなかった? 標的を殺せなかった? まったく、レイスなりアズなりに傷の一つでも付けてくれば良かったものを、役立たずめが」
「でも、昏守(くらもり)に代わる暗殺者はそう手に入らないのでは……?」
「いいから殺れ。猫は気ままで考えが読めんし、いつ飼い主に牙を向けるか分からんし。この男の無表情は少々気味が悪かったからな。もう少し可愛げのある奴を探すさ」
 そう言い残すと彼はさっさと牢から離れ、廊下の向こうへと姿を消した。二人の警備服は肩をすくめる。持っていた鞭を腰のベルトに戻し、片方が牢から出て行った。人から命を奪うには鞭では足りないのだ。廊下の隅から両刃の剣を取って、男が戻ってくる。
 豹が殺されてしまう。ユキはそれが自分を狙っていた暗殺者だということも忘れ、そばへ駆け寄ると床に膝を着いた。そして、首を抱えて一生懸命に引っ張る。鎖で繋がっていたため上手くいくはずもなかったが、夢とはいえじっと見ていることができなかった。
「……ぐるる……」
 昏守と呼ばれた黒豹がユキに気付いた。今まで見えてもいなかった人間が、唐突に現れて触れてくる。夢を通り抜け現実に姿を得たユキを、警備服も驚愕の眼差しで見ている。じっと見ていたはずの片方は、瞬きの間に出現した少女から飛び退き鉄格子に背中をぶつけた。
「えっ? ひ、姫様っ!?」
「どうして……どうやってここへっ!?」
 ユキは事態が変わったことを感じ、おろおろと視線を彷徨わせる。だが、抱えた黒い体は離そうとしない。寝巻きを血に汚しながら、何とか助けなくては、逃げなくてはと彼女は焦っている。
「おい、これはチャンスじゃないか?」
 警備服の一人が持ってきた剣を構え、汗の浮いた顔を嬉しげに歪める。本来なら暗殺者の手で殺されているはずの姫が、どういうわけか一人で彼等の前に現れ、無防備を晒している。
 任務を失敗した暗殺者に代わり彼女を殺せば、自分達の手柄になる。説明は付かなくとも、ユキを殺した事実が主の満足になるのではないか。その考えが伝わり、もう片方もにやりと嫌らしく笑った。彼等も夜の民、心は黒く暗く、人の死を弄ぶのは悦びだ。その機会を正当に得られるなら嬉しい限りだった。
 剣先を向けられユキは息を呑む。腕の中で豹がのそりと起き上がり、低い姿勢で白い牙を剥き唸りだした。ユキを守るためではなく、彼自身が生き残るための足掻きだ。だが、ユキはそう取らなかった。
 血を流しそれでも立ち上がる黒豹を哀れみ、彼女は彼を救うため、自身の中に眠る力を呼び覚まさんと集中する。
 座り込んだユキが両手を胸の前に組み声を張る。蒼い瞳が凛とした光を灯す。唸り声と鎖の音、嘲るような二つの笑い声がしんと静まった。それは女神の詩、愚か者を諭し、儚い命から穢れを祓う慈しみの歌。歌は音、音は耳に流れ精神を揺さぶる。
 二人の警備服が目眩を起こしたようによろけた。一人は剣を取り落とし、一人は剣を杖にして踏み止まる。割れるように痛む頭を抱え、警備服が苦しげに呻く。
 それは魔術ではなかった。しかし、はっきりと人へ影響を与える声に黒豹は黄金の瞳を丸くして驚く。自分にとっての脅威は警備服二人よりこの少女なのかと、彼は鎖の限界まで後退した。
 よろよろと血の筋を引きながら男達から、自分から逃げる豹を見て、ユキは歌うことを止める。耳を下げて太い尾を毛羽立てて、戦うこともできない体を必死に立たせている。ユキは一瞬悲しそうに表情を曇らせたが、片手を彼に差し伸べ再び歌った。先の詩より柔らかで、声は甘く優しい。
「……白雲たなびく空の果て、世を包む大いなる神鳥の翼。癒し求める者へ彼、舞い降りて、落つる羽根に触れし者、健やかなる生を得ん。手折られることなかれ、その命、淡く儚く、また強く……」
 昼の国の神々の詩をユキは歌う。その神聖な詩は闇を排し、愛する民を守り救う。ユキは魔術を使うことは出来ないが、生まれ変わりとも言われた女神の詩を歌うことができた。
 昼の国の力は夜の国の民にとって己を滅ぼすものでしかない。黒豹はユキの声を攻撃と思ったのか、観念したように立ち尽くしていたが、様子が違うことに戸惑い不思議そうに目を瞬かせた。彼女は傷付いた豹の痛みを晴らし、癒していった。まるで自分の民に接するように詩は優しい。
 傷が淡い光を放ちながら消えたのを見て、豹は身震いをして体の具合を調べる。殺そうとしていた相手が昼の国の力を使い、あろうことか夜の民を救った。
 歌声が途絶え目眩の収まった警備服の二人は、ユキが昼の民であることを確信する。そして、再び彼女が歌う前に倒すべきだと頷き合った。たとえ姫であっても昼の民は滅ぼすべき相手、ここで殺すことに更なる正当性が増えた。
 二人は黒豹が元気になったと安心しているユキに飛び掛る。振り上げた剣で白い喉を薙ぐ、腰に構えた剣で腹を突く。だが、二振りの剣はどちらも阻まれ、また弾かれた。
「俺がいるんですけど、忘れてません?」
 鈍く輝く刃の向こう、しっとりと垂れた長く黒い髪の陰から、黄金の瞳が感情なく男達を見据えた。鎖の届く範囲、彼の攻撃範囲に足を踏み入れたことを後悔するが遅い。キンと空気が軋み、慌てて飛び退こうした足に冷気が絡みつく。
「犬ほど律儀じゃないですけど、ほら、猫は気まぐれらしいんで」
 大体、あんた達は俺の敵になったんですよね? と、抑揚ない声が無慈悲に告げる。足が異様な冷たさを訴えたかと思えば、それは全身を駆け巡り吐息さえ白く変わった。男と刃を交えていた警備服は文字通り凍り付く。身を流れる血液が凍結、水分を多く含む体も固まり動くことができなくなる。
 剣を弾かれた警備服は霜が降りて白くなった相方を見るや、相手の悪さに絶望したのか、気が狂ったように斬りかかってきた。金眼はゴミを見るように温度を下げる。手にした氷の短剣を操り、何度か剣を受け流したあと深く身を沈める。暗殺者を捕え損ねた男は、大きく振った剣で氷と化した仲間を打ち砕いた。
 ガラスを割ったような派手な音に、ユキが耳を塞ぎ目を閉じる。だが、近くで氷が弾けたのに何も降ってこない。恐る恐る目を開けてみると、そこには薄い氷の壁があった。普段アズがユキを守る時に作る水の壁とよく似ており、氷片はその向こうに散らばっている。
 そのまま視線を上げると、あちこち破けた黒服の背中側が見えた。そして、恐怖を顔に貼り付けたまま、数瞬前までの相方を真似るように氷結した男が立っているのも見えた。「こう散らかすと三流と変わりませんね」と、暗殺者らしからぬ殺し方にぼやき、男が振り返る。
「あんた、敵の怪我を治すなんてどういうつもりなんですか? 利用したんですか?」
 人の死を見たにしてはあまりにあっさりしていて、痛みを感じない不思議さにユキは服の裾を握った。答えない彼女に吐息を零し、暗殺者・昏守はもう一人の警備服も粉々に壊す。衣服だけが原型を留め、体は中から零れた。時間が経てば溶けて血が広がるのだろうが、今はただ塊が落ちているだけだった。
「あんたを殺す理由はなくなりましたけど、この顔、覚えていられると困るんですよね。それに、俺はここで死んだことになってる。生きているのがバレるとまた面倒なんですよ」
 彼が腕を振ると氷の壁が蒸発して消えた。氷柱のように細い短剣が、不意にユキを狙い剣先を向ける。目の前に立ち自分を見下ろす男を見て、ユキはその手が酷くて非情なことを感じた。怪我の一つにさえ自分は心を痛め、死は大きすぎて気持ちが動かなくなるほどなのに、彼には一瞬の動揺もない。
 暗殺者を生かしたことに後悔はない。それによって二人が死に、自分が再び危機に陥っているが、昏守の行動を怖いと思わなかった。何故だろうかと首を傾げると、彼も少し首を傾けた。前髪が流れて瞳が隠れる。
 ユキはそこで気が付いた。彼は刃を向けるくせに、殺気は向けてこない。それどころか、飛散る氷の欠片から彼女を庇うような真似もした。犬ほど律儀でないと言いながら、救われた恩を返そうとしているのか。殺すことしかしない手は慣れないことに迷い、意味もなく刃を向けてきている。だから怖いと感じない。
 きょとんとしていた顔に、ぱっと落ち着かない表情が広がった。ぎこちなく立ち上がり裾をはたくと、ユキはねだるように小さな手を差し出す。意味が分からないのだろう、男は無言でその様子を見ていたが、遠慮がちに手を掴まれるのに抵抗はしなかった。
 歌う時にしか彼女は声を発しない。アズやレイスにするのと同じように、ユキは昏守の掌を指でなぞった。「帰りたい」「全部秘密にする」と。
 読み取れたのか分からなかったのか、恐々見上げた顔は何の反応も示さない。だが、前髪に隠れた瞳がちらりと蒼い目と視線を合わせた。彼はくるりとユキに背を向け、床に撒かれた氷を踏み割りながら警備服に近付く。落ちている衣服の中から鍵束を拾い、手足の枷を解いた。
 彼は警備服を拾うとバラバラに切り刻み、自分が着ていた黒服の上着も同様に端布へ変える。そして、それを床に撒いて足で蹴り、氷と適当に混ぜ合わせる。そのままふらりと牢を出て行ってしまった。
 慌てたユキは氷を踏まないよう気を遣いながら、彼を追って廊下へ出る。昏守はあたりを警戒しながら待っていた。少女の出てきた牢に彼は鍵を掛け、廊下に並ぶ別の扉一つを選び、鍵を開ける。
 鍵穴に鍵を差したまま、昏守は何をするのか分かるようゆっくりとした動きで、不安そうなユキに手を伸ばした。彼は飛剣を白銀の髪の上へ滑らせる。数本の長い髪が指に絡め取られた。それを開けた牢の中へばら撒き戻ってくる。鍵を掛け、抜いた鍵束はそばにあった机の上へ置いた。
「ここは姫の暗殺を企てた男の屋敷です。あんたは誘拐されてこの牢屋に捕らわれた。でも、ここの警備の者がそれを哀れみ逃がしてくれた。屋敷から少し離れた場所で、あんたは姫を探していた者に無事に保護される。あんたが屋敷を出た後、しくじった俺、逃がした警備の二人がそこで罰せられ殺されます。……あの良くできた魔法使いが髪を証拠に、ここの主人を姫の誘拐と暗殺未遂で絞めるでしょうから、上手く話して下さいよ。後でここの主人脅して同じ話吹き込んでおくんで、食い違わないように気を付けて下さい」
 喋りながら昏守は空間移動の魔法を使い、ユキを屋敷のそばの森へ連れ出した。そして、レイスがセシルを呼ぶのと同じ音の口笛を吹く。高音で、鳥が鳴くような音は動物の耳でなくては聞き分けることも難しい。それを何度か繰り返し吹いて、耳を澄まし遠くを見つめる。
 しばらく無言で二人は立ち尽くしていた。しかし、何かに驚いたように昏守はとんっと後ろへ一歩飛び、次の一歩で魔法を使うと一瞬で姿を消してしまった。あまりに急だったので、残されたユキはぽかんとした顔で男のいた場所を見るばかりだ。
「―――。……わんっ!」
「ユキちゃーんっ!? ユキちゃんだねっ? 無事っ!? 怪我とかっ大丈夫っ!? 一人なのっ?」
 たくさんの足音や声を引き連れ、蜂蜜色の大きな犬が大急ぎで走ってくる。その後ろから息を切らし、それでも次々とものを問いながらアズがやってきた。
 ベッドで眠っているはずのユキが忽然と、何の予兆もなく、気配も残さずに消えて城は大騒ぎになっていた。姫の襲撃については翌朝に報告しようとレイスが言っていた矢先に、姫が誘拐されてしまった。それも、王子の部屋から、軍人としても腕の立つレイスやアズに気付かれもせずに。
 普段は余裕のレイスもさすがに焦ったようで、軍のほとんどが動かされてこの大捜索だ。夜の半分が過ぎたあたりでセシルがレイスのものでない「口笛」を聞きつけ、誰かが呼んでいると走った先にユキがいた。呆然とした様子のユキにアズは半ば錯乱状態だ。度重なるショックと寝巻きに滲んだ血が原因だろう。
「ユキちゃんっ怪我してるのっ!? これは、どういうことっ? 急に部屋からいなくなって、一体何がっ?」
 たくさんの兵士に囲まれ、松明の火に照らされながら、ユキは自分が無事であることを見せる。そして、城へ戻る馬車の中でアズの手を借り、自分に起こったことを書いて知らせた。不器用な優しさをくれた暗殺者の言ったことをそのままに騙り、城で本部を構え待っていたレイスに会った時も、嘘を通した。

 数日の後に、アズは首謀者と思われる国の幹部を捕えた。暗殺未遂は知る者も限られていたため、姫の誘拐を理由としてだ。主な証拠はユキの証言と牢に残された彼女の銀髪のみ。反論の余地はあったが、犯人の側は何かに怯えたように、あっさりと罪を認めてしまった。暗殺未遂も自白し始めている。
 そして、ユキが戻った次の日のことだ。探索の続いていた水晶の街から「朝霧の歌姫」の遺骨が見付かった。朝から一人の兵士が姿を消し、夕方にはその者が街の教会で死体で見付かった。何かに襲われたように傷だらけで息絶えており、そばには辞書ほどの大きさの古い箱が落ちていたそうだ。
 蓋の開いた箱には幼い子供の骨と、柔らかな銀髪の束が収められていた。蓋の裏に「親愛なる我等が女神の化身。歌姫キルよ安らかに眠れ」と彫られていた。箱には封印の魔法がかけられており、駆けつけた魔法使いの見立てで、兵士は箱を開いた時に掛けられていた魔法で死んだことが分かった。
「ユキ生きてるし、キルの遺骨なんて絶対偽物なんだけど、どうして偽物があるのか分からないな。昼の国の奴らが歌姫復活の時の目くらましに仕掛けてた? だったら使わせてもらうっきゃないよなぁ」
 アズから最新の情報を聞きながら、執務室の窓辺に腰掛けてレイスは窓の外を見ていた。朝霧の歌姫の遺骨が出た以上、ユキがキルと別人であることは証明されたことになる。今回捕えられた男が「国」への反逆者とみなされ重い処分を下されたこともあり、彼女のよからぬ噂を立てる者は揃って声を静めた。
 ユキの疑いが目に見えて晴れていく。だが、レイス達にしてみればこのタイミングはでき過ぎていた。誰かが少女に追い風を吹かせているように、事態が好転していく。
「うん、おれもその遺骨を見せてもらったけど、確かに古い骨と髪なんだ。ただ、箱の方が不思議でね。中に彫られた文字に違和感があって……誰にも言わなかったけど、良く調べたら随分新しいものだったんだ。最近彫ったものを古く見せてあった。それに兵士の血がべったり付いてしまって、分かりにくくなってた」
「じゃあ何、昼の民が作ったもんじゃないってことか。封印が解けるまで街には誰も入れなかったはずだ。結界が解けてから街に持ち込んだ偽物ってことだな?」
「それらしい箱を用意して、字を入れて細工して、何処かの墓から見繕ったんだろう骨を収めた。そして、適当な兵士を一人殺して教会に置き、『箱を見付けて開けた兵士が中から弾けた魔法に切られた』ように血を撒いた。昼の国で死者を弔う時と方法が違うし、夜の国の方法とも違うけど、キルの場合はとても特殊な状況下にあったから通常と違うのは仕方がないと誰もが思う。焼いて骨にしてしまう必要があったのかも疑うことじゃない。今回は不自然であることが自然だから、簡単にみんな騙されているけどね、おれが思うに、誰かがユキちゃんの『色々』を知った上で置いたんだよ。偽物はごく最近作られた物。変な話だけど、誰かがユキちゃんを庇ってやったことじゃないかな」
 だとしたら秘密がばれたことになると、声を低くしてレイスが言う。ユキがキルであることを知るのは本人とレイスとアズ、三人だけのはず。秘密を知った者が悪意を持っているなら、かっこうのネタにされてしまう。だが、レイスの顔は至って穏やかで、深刻なところは少しもない。まるで心配していないようだ。
 反対に、淡々と語ってはいたアズは心穏やかではない。変に噂を立てられるより、事実を知る者が一人現れる方が不安は大きい。この状況ならユキが朝霧の歌姫であると暴露したところで、さして信じる者など出てこないだろうし、ユキを庇うような真似をしている以上、相手に強い悪意があるようにも思えない。その行動の不可解さが不気味なのだ。
「そうだアズ、セシルがな、ユキに口止めされてるんだけどって、いいこと教えてくれたんだ」
 唐突にレイスが声のトーンを上げた。何やら嬉しそうに窓の外を覗き込み、そうっと窓を半分開ける。
「ユキがな、あの夜仕掛けてきた暗殺者を探してるんだって。 奴は牢屋のバラバラ死体の一部になったって話だけど、それを散歩しながら犬に探させてるんだとよ。でも、俺達には内緒にしろって言われてるらしい。……捕まえた高官のおっさんは暗殺者と警備二人をあの牢で殺した、ユキもあそこに奴がいたのは見た、セシルもあそこに奴の血のにおいがあったって言ってる。服も落ちてたし、奴が死んだ証拠は揃ってるっぽい。けど、あの粉々死体、三人分には少なかったと思わねぇ? ……あの暗殺者、生きてるぞ。口笛吹いてユキの居場所をセシルに教えたの、奴だろ」
 やけに楽しげな声にアズが眉を顰める。不可解なことが残っているのは事実だった。だが、ユキの言うことと捕えた犯人の証言は一致していて、彼等の言葉と現実が少しずれているに過ぎない。無理に納得しようとすれば可能な範囲のずれは、なかったことにされている。
 レイスは「ずれ」の鍵を握っているのは「奴」、あの夜の暗殺者だと言う。ならば、ユキや犯人は嘘を言っているのか? 口裏を合わせる理由は、方法はとアズが口を開きかけた時、急に窓の外が騒がしくなった。まるで敵を発見したかのように、激しく犬が吠えている。
「……セシル?」
 男が腰掛ける窓辺へ駆け寄り、アズも外を覗き込む。下は噴水を取り巻くように薔薇の咲く中庭だ。黒絹に銀糸の刺繍がある、シンプルな型のドレスを来たユキの後ろ姿が見える。いくつか配してある彫像の一つを時折見上げながら、吠え立てるセシルの背を撫でて落ち着かせようとしていた。
 ユキのそばにあるのは背が高く厚みのある石版だった。月と星と雲とが描かれた、夜の空を形にしたもの。白い石版には上から黒い紐が垂れ下がっている。ユキはセシルをなだめることを諦め、背伸びをして紐に手を伸ばす。が、ゆらリゆらりと指先を掠めて捕まらない。
 長く太いしっぽを優雅に揺らしながら、随分大きな黒猫が寝そべっていた。セシルが機嫌悪く吠えている相手はその猫だ。しかし、猫の方はうるさそうに耳を伏せるだけで、彼の怒りなどどこ吹く風といった涼しい顔でそっぽを向いている。
「あはは、ユキと犬が猫に遊ばれてら」
「ちょっ、猫じゃないよっ! 黒豹っあの暗殺者が黒豹の獣人だったじゃないかっ! 生きてたなんてっ!」
 乱暴に開けられた窓の音。すぐにアズが杖を構える。彼の叫びに耳を立てて黒豹が上を、アズとレイスを見上げた。緊張に硬い光を湛えた黄金の瞳が、愉快そうな紅い瞳と視線を合わせる。
 整った顔立ちの中で唇の端が上がる。目を線にして、レイスが美しく微笑んだ。昏守は危機を感じたのか、さっと立ち上がり逃げ出そうかと身構える。
「アズ、いい。殺る気がないのは見て分かる。本気ならとっくに殺ってるさ」
「だからってっ!」
 杖の先にはいくつもの雫が浮いている。許可さえ下りれば、昏守が不審な動きを見せれば、すぐに放てるよう魔法が作られていた。臨戦体勢のアズの肩をぱたぱたと叩いて、レイスは黒豹に向けたのと同じ笑顔を見せてやる。
 彼にとってユキは妹とも娘とも言える存在。そばに敵がいるというのに、何故笑っていられるのかとアズは眉間に皺を寄せたまま動かない。
 アズが味方してくれていると分かったセシルが、激しさを増して黒豹に吠えかかる。レイスがアズを止めたのを見て、気をそらした昏守がうるさいと眼下のセシルに牙を見せ唸った。毛を逆立て、けばけばのしっぽを振って二匹が威嚇し合うその間で、ユキが手も付けられずオロオロしている。
 彼女は黒豹に背を向けている。両手を広げてセシルの前に立ち、後ろを庇いながら上にいる兄やアズの方もちらちらと様子を窺っていた。
 昏守が圧倒的に不利な立場、不利な状況にあるから可哀想だとでも思っているのか。自分が襲われた過去など忘れたように、彼が生きていることが当然のように振舞っている。
 気分の一つで己が手は敵を刈る。命令の一つでアズも動く。そんな有利な立ち位置から敵を見下ろすなど、愉快極まりないことだ。だが、こうなることを覚悟で暗殺者は庭に入り込んできた。わざわざ死にに来たような昏守と、それを必死に守ろうとしている妹を見て、「まぁ落ち着けよ」とレイスは笑った。
「こら猫っ、俺様の手が届くとこまで入り込むなんていい度胸してるじゃんか! 遊んでんのは結構だけどっ俺のユッキーに手ぇ出すんじゃねぇぞっ? つーかセシルはうるさいっ! 黙れっ!」
 盛大に叫んだ彼はしなやかに腕を振るう。紅い光が集まり剣の形に固まった。そして、二度振られた腕に合わせそれは飛ぶ。自分が狙われたとすぐ分からなかったセシルは、足元のレンガに突き立った長剣にびくりと身を震わせ、ぴょこんとその場で垂直に跳ね飛んだ。
 守りたいものの多いユキは脅えて彫像の下にうずくまった犬の首を抱え、上の階から飛び降りてきたレイスにどっちにも酷いことをしないでと困り顔で訴える。彫像の上では身を固めた黒豹が、間近に迫った男をじっと見つめている。上から黒いローブをはためかせアズも降りてきた。
「分かったってユッキ、飼いたいなら猫でも馬鹿でも飼えばいい。でも、その猫は善い奴ではないぞ?」
「……俺はもう人に飼われる気なんかありませんよ」
 彫像の上から煙が降ってくる。アズが杖を向けた先には長い黒髪に表情を隠した男が片膝を着いていた。はっと振り返ったユキの蒼い目をひたと見据え、昏守は静かに感情を見せない声で言う。
「大体、あんたの『光』は多分、俺には強すぎる。そばにはいられませんよ」
「嘘吐けよ。ちゃっかり出てきてるじゃんか。ここんとこユキにいい風吹かせてたの、お前だな? ユキと何があったか、何を知ったかは分からないが、ありがとうな、助けてくれて。無事にこいつが帰ってきて、妙な疑いもどんどん晴れて、お兄様はほっとしてるとこだ。このままお前が見た『光』については忘れてくれると嬉しいんだけど?」
 からかうようなレイスの言葉にふんっと鼻を鳴らし、昏守は立ち上がる。そして、彼は幽霊のようにふらりとよろけ空間へと溶け消えた。
 不機嫌そうに小さく唸った犬を抱いたまま、ユキは行ってしまったとしゅんと俯く。レイスは「今日のところは残念だったな」と苦笑しながら、その柔らかな銀髪を撫でやった。
「大丈夫だユッキー、ああいう奴は構うと鬱陶しがって離れてくけど、ほっとくと寂しがって寄ってくるから。放しとけばその内に構って欲しくなって出てくる。ツンデレラよりツンデレっぽいしな」
 楽しそうなレイスは文句とも抗議とも取れることを言い続けるアズを無視して、中庭から出ようとした。だが、部屋と方向が逆なことに気付いたアズが彼の腕を掴む。有能な執事の面も合わせ持つ魔法使いによって、サボリ癖のある王子は滞りなく執務室へと連行されていった。

 裾の長いロングドレスを芝生の上に丸く広げて、白銀の髪を背に流した幼い少女が花冠を作っている。そばでは蜂蜜色の大きな犬が花に鼻を付けてはくしゅくしゅとクシャミをしている。少し離れたところには、シートにクッキーやマドレーヌを広げ、お茶の準備をしているメイドがいた。
 犬の様子にくすりと笑う少女の横へ、真っ黒な影が現れた。夜闇を紡いだような長い毛の大きな猫が花を避けて立ち、明るい月に似た黄金の瞳で少女を見ている。気付いたユキは吠える前にセシルの口を押さえる。そして、唸り声で不服を訴える犬を花畑に伏せさせて、作り終えたピンクの冠を頭に乗せてやった。
 彼女は黄色の花を選び、せっせと二つ目の花冠を作った。そして、静かに座って犬と睨み合う猫に近付き、ユキは作ったばかりの芳しい冠を被せてやる。
 どうだろうかと少し不安が見える、しかし、嬉しそうな微笑みを少女は浮かべた。黒い体に金色の瞳と黄色の冠。似合っていると喜ぶ、花畑に咲く花々のような笑みから昏守はぷいっと顔を逸らす。
 猫の顔から表情を読み取るなら、彼は「まんざらでもない顔」をしていた。

−終−

2010,8,2頃


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